父と母とランニングの思い出

ランニング

ランニングとの出会い

 父と母がランニングを始めたのは2013年、父が57歳、母が61歳の時だった。

 それまで母が率先して水泳やったりウォーキングしたり、体を動かすことが好きな人だったので、「ついにマラソンまで始めたかぁ」とぐらいの印象だった。趣味として走る程度、せいぜい5キロくらいかな、なんて思っていたら、二人ともあっという間に10キロ走れるようになり、気付けば地元のマラソン大会にエントリーしていた。

 二人のマラソン大会デビューには付き添いとして私も行った。冷たい風が吹き始めた十一月上旬のことだった。

 周りの人がランニングウェア姿で溌溂と準備運動をしたり、軽く走ったりしている中、デニムのスカートを履きダウンジャケットを着こんだ私はなんだか場違いな所に迷い込んだような気持ちで恥ずかしく感じたのを覚えている。父も母ももちろんスポーツウェア側の人間だった。彼らの弾けるような笑顔を見て、初めてのマラソン大会の出走に向け緊張しながらも気分が高揚している様子が伝わってきた。

 スタート位置は確か川沿いの土手の上で、私はその沿道に立って二人がスタート直前まで着ていたウィンドウブレーカーを受け取り、ピストルの音と共に二人が走り出すのを見送った。はじめはゆっくりと集団が動き出し、その内団子状に固まっていた人の塊が解けてくると、父も母も力強い走りであっという間に遠のいていった。

 彼らが戻ってくるまで一時間程度、私はずっとコース周辺をうろうろと歩き回って、初めて来たマラソン大会の雰囲気を存分に味わった。

 早い選手なんて三十分もしない内にゴールを切っていた気がする。みんな健康でとても楽しそうに見えた。

 走るのなんて絶対いやだ。なんでこんな寒い中で薄着でわざわざしんどいことするんだろう。マラソン大会の会場に行くまではそんな風にすら思っていた。なのに、コース周りをうろついている私はいつの間にか大会に出ている彼らが羨ましくて、自分も走ってみたくて、うずうずしていた。

 最初に父が、そして少ししたら母がゴールをした。二人共辛そうな表情は微塵もなく、走り切った達成感と喜びに頬を紅潮させていた。二人にスポーツドリンクを手渡しながら、やっぱり私は「いいなぁ、私も走りたい」と思っていた。

感化されて私もはじめてみた

 私が実際に走り出したのはそれからすぐの事だった。初めは1キロも続けて走れなくて、歩いてるのか走ってるのかも分からない速度で形だけは走ってるような恰好をして、とにかく自分で決めたコースを進んだ。

 その内走り続けられる距離が伸びていき、三キロほどはなんとか続けて走れるようになった。結婚式に向けて食事制限のダイエットに挑戦していたこともあり徐々に体重も減っていって、ランニングがどんどん楽しくなっていった。

 私もランニングを始めてから、父と母と何度も一緒に走った。実家近くの田んぼの周りをぐるぐると何周も走ったり、車で少し遠出した景色の綺麗な自然の中で走ったりもした。緑の中で汗をかいて走るのはとても気持ちがよかった。ただ走るだけで満足していた私は、スピードを追い求めるマラソン狂になっていた父と母にいつも置いて行かれたが、彼らの元気に走る背中を見るのもまた楽しかった。

 いくつもの大会に一緒に出た。通常は10キロ程度だったけれど、父と母がフルマラソンに初挑戦するとなった時、私も一緒に出ようよと誘われた。正直10キロまでしか走ったことないし、これ以上走れる気もしなかったが、何事も経験だしもしかしたら走れちゃうかもしれない、と軽い気持ちでOKした。

 結果、もちろんお気楽ランナーの私に走り切れるはずもなく、25キロまでは頑張って走り続けたが、それ以降は脚を引きずりながら歩いた。このままゴールまで行けないかと淡い期待も抱いたが、脚が悲鳴を上げ膝が曲がらなくなった33キロ地点で無念のリタイアをした。42.195キロは甘い気持ちでは走れないことを思い知った。

 もちろん練習をしっかり積み、準備万端で臨んだ父と母はしっかり走り切ってゴールしていた。

忍び寄る不安

 2017年頃から、母が股関節の痛みを訴えるようになった。マラソンのしすぎで軟骨が減って骨同士がぶつかっているのかもね、なんて言い母は整形外科に通った。それでも痛みはずっと母の股関節に居座ったまま、月日が流れた。

 2018年の夏、また車で自然の綺麗な所へ走りに行った時、母はもう走らずにウォーキングをしていた。私も大分練習をサボりまくっていたせいで走れなかったので、母と一緒に歩いた。依然としてマラソンに狂っていた父は一人で黙々と走っていた。

 二人で歩きながら股関節の状態を尋ねると母は「もうおかあさんはこのまま走れないかもしれないね」と弱気な発言をした。今までいつも元気で強気な発言ばかりしていた母から飛び出たこの言葉に、私はひどく動揺したことを覚えている。口では「まさかぁ! またすぐ走れるようになるよ」なんて言い返したけど、心の中では不安が広がっていた。「このまま走れないかも」なんて、まるで死が近い人が言うような言葉だと思った。

 母はまだ六十代半ば、寿命が来るまであと二十年はある、だから大丈夫と自分に言い聞かせるように考えた。

 でもその夏の帰省から帰る際に、母はもっと私を不安にさせる言葉を口にした。

 「畑の仲間も、ストレッチの仲間も、ランニングの先生も、知ってる人がどんどん死んでいく。知り合いが減っていっちゃって、これからどうなるんだろうねぇ」

 母の口から「死」なんて単語が出て来ることがとても怖かった。「死」なんて、自分達には全く関係ない話だとそれまで思っていたのに。

 まるで母が「死」の側に自ら近づいていってるように思えた。母をなんとか「生」の側に引き留められる言葉はないかと色々明るい話題を振ってみたが、最後まで母を「死」の引力から引き戻せた感触はなかった。結局不安を抱えたまま、私は家へ戻ることになった。

 それから私が母と走る機会はなく、がんが見つかって九か月後に母は死んでしまった。

 最後の方は母とたくさん散歩へ行ったけれど、それも2020年に入ってからはコロナウィルスのせいでほとんど行けなかった。

 母はいつか名古屋ウィメンズマラソンを走りたいと言っていた。その夢を私が引き継いで、いつか母の代わりにその大会を走りたいと思っている。マラソンを再開したばかりでまだ10キロ程度しか走れないけれど、母がマラソンを始めた61歳までにはたぶん出られるんじゃないかと緩い計画を立てている。

 走るときはもちろん、母の骨の欠片が入った遺骨ジュエリーを首に下げて一緒に走る。

 まだまだ道のりは遠いけれど、頑張ります。

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